東の宿の宿

何かの衝動に駆られた時に自由に何かを書きます。気楽にね。

【FE風花雪月】『フレスベルグの少女』の歌詞について考察

 

東の宿です。諸々の事情でブログを新たに作ることにしましたが、まあそんなことはどうでも良くて、『ファイアーエムブレム風花雪月』の主題歌(OP,ED)である『フレスベルグの少女』という曲の歌詞の考察をしてみます。

本気で一つ一つ考察しますので、とても長くなります(なりました)。読み飛ばしつつ読んでいただければ幸いです。

曲の性質上、ゲーム本編のネタバレだらけですのでその点はご了承ください。

 

 

 

前書き

なんで今さら風花雪月?」と思われる方に一応。

特に新説とか界隈に動きがあったわけではありません。純粋に私が最近初めてプレイしたからです。というかFEシリーズ自体プレイするのが『風花雪月』が初めてで、界隈についてはこれっぽっちも詳しくありません。悪しからず。

プレイ後歌詞を調べる→良い歌詞だなぁ→でもしっくりくる考察がないなぁ→

ないなら自分で書けばいいじゃん。

この流れで、思い立ったが吉日とばかりにわざわざアカウントまで作り直しました。もう後には引けない気持ちで書いていきます。

あ、でも言い訳を一つだけ。熱が冷めないうちに書きたい思いがありまして、歌詞を知ってから2,3日程度でこれを書き始めています。

多分考察漏れもあるでしょうし後から気づいたらバンバン編集もすると思います。

よりよい形にするためということでお許しください。

 

おさらいと考察の軸

それではここから本題です。まずは『フレスベルグの少女』という曲についておさらいしておきましょう。

簡単にまとめると、この曲において重要な点は以下の3つです。

  1. この曲はあえて2パターン用意されている。
  2. この曲はエーデルガルトの曲である。
  3. この曲は風花雪月のストーリーと密接に関わっている。

1.の2パターン、というのはOPの『フレスベルグの少女~風花雪月~』と(紅花の章以外の)EDの『フレスベルグの少女』の2つですね。

曲調やいくつかの歌詞の違い、副題無しの方は本編「紅花の章」のEDでは使われなかったことを考えると、特別な意味をもって2つ用意されたことは疑う余地はないでしょう。

 

2.3.についても特に言うことはないと思います。タイトルが『"フレスベルグ"の少女』ですからね。

 

さて、これらを踏まえて考察するにはまず考えなくてはならない問題があります。

それは「この曲はなぜ2パターン用意されたのか?」ということ。

(メタい考え方をすれば、副題無しの方はEDに相応しいようバラード調で作られたとも考えられますが、歌詞まで変える理由にはなり得ませんし、何よりそんな考察は品がないので横に置いておきましょう)

 

この問題は考察の先駆者様たちも考えているところで、たしかニコニコ大百科には『エーデルガルトへの鎮魂歌だから』との考察が一例として載っていたように思います。それだけ、ここの解釈ひとつで考察の方向性が定まるほど、重要なポイントなのです。

そして、私の考察は『フレスベルグの少女~風花雪月~』と『フレスベルグの少女』では内容が全く違うため2パターンあるです。

 

この二つの曲はタイトルやメロディこそ同じであるものの、歌っている歌詞の意味も背景も全く違っている。これがこの後の私の考察の""となります。

と言っても、飛躍しすぎて何を言ってるのか分かりませんよね。

 

もう少し説明すると、アップテンポのOPである『フレスベルグの少女~風花雪月~』は(黒鷲の学級を選んだ場合の)白雲の章のエーデルガルトの"心の内"を時間の流れとともに表したもの。

スローテンポのEDである『フレスベルグの少女』は銀雪の章の皇帝エーデルガルトの"回想"をとある場面を想定して表したもの。

ということになります。

 

なぜこの結論に至ったかや根拠など詳しくは最後に説明いたします今はひとまずこの軸だけ覚えていただき、歌詞自体の考察に進んでいきましょう。

 

『フレスベルグの少女~風花雪月~』の歌詞考察

さて、ここまででも文章の量がかなりのものですが、ここからもっと長くなります。

次からは、上の前提を踏まえてできるだけ漏れなく全ての歌詞を考察していきます。

まずはOPの『フレスベルグの少女~風花雪月~』を「白雲の章のエーデルガルトの心の内」という前提で考察していきます。

 

 

〈夜明けの手を取り高く羽ばたく日まで〉

 

まずは『夜明けの手を取り』ですね。これは一見ベレ先生のことにも思えますが、『夜明け』は『新しいフォドラ』のことであるというのが私の考察です。

なぜなら『手を取る』という表現は主に導いたり引っ張る側の表現であり、さらに『~の手を取り』は「~を教え導く」という意味があります。

エーデルがベレ先生に『手を取られる』ならばともかく、終始生徒だったエーデルがベレ先生の『手を取る』というのは意味に違和感があるからです。

『夜明け』が『新しいフォドラ』だとすれば、「人の治める新しいフォドラの手をエーデルガルトが引く」というような表現になります。こちらの方が適切ではないでしょうか。

余談ですが、翠風の章で「フォドラの夜明け」なんて言葉が出てきましたね。

 

次に『高く羽ばたく日まで』、これは「エーデルの夢が叶うまで」というような意味にとる人が多かった印象でしたね。

特に異論はないですが「エーデルの夢って何?」という問いを想定してより厳密に言うなら「帝国が力をつけ成長する」ことでしょう。

高く羽ばたく』からは帝国の象徴である鷲が羽ばたくようす(本編でも強調されていました)もイメージできます。

まとめると、ここの節の意味は「新しいフォドラをエーデルが導き、帝国が力をつけ成長する日まで」となります。

紅花の章では帝国がフォドラを統一しエーデルガルトが皇帝としてフォドラ全土を治め、発展させたので望みは叶えられたことになります。

ちなみに『フレスベルグの少女~風花雪月~』のCDの初回限定盤のパッケージのイラストで、エーデルが空を飛ぶ鳥を振り返って見上げています。あれが(おそらく)鷲であることもこの考えの根拠となるのではないでしょうか。

 

〈安らぎのよすがに身を預けて震えている〉

 

サビの続きです。割とストレートな歌詞です。『震えている』は、『安らぎ』という言葉の文脈からして「恐怖や不安によって」で相違ないでしょう、怒りや悲しみに震えている描写はありませんでしたしね。

「恐怖や不安」についてもっと詳しく言うと「これからやろうとしていること」への「恐怖や不安」ということになります。

難しいのは『安らぎのよすが』でしょうか。ゲーム中も何度か出てきた「よすが」は体や心などのよりどころ、よるべ、といった意味の言葉です。

士官学校の仲間やベレ先生がこの時のエーデルにとっての『安らぎのよすが』ですね。根拠は先の歌詞を見れば分かると思います。

 

〈ステンドグラスを透る光 銀の燭台きらめいて〉

 

ガルグ=マク大修道院内の風景です。

""が教会の象徴であるステンドグラスを透っている→つまり室内を照らしている""は純粋なものではなく教会によって管理されているもの。と捉えられるでしょうか。

また『銀』は聖教会のイメージカラーですね。銀という色には「協調性が高い」という性格があり、それが燭台=辺りを照らすもの。であり、さらにきらめく(光る)わけです。

ここまで『』を強調されれば、この一節は『教会に管理され教会によって明るく照らされる大修道院及び5年前のフォドラを表していると言っていいでしょう。

きらめく』という表現からは、それが"本物"の光でないにせよ、美しい光であると感じていることも読み取れます。

 

〈並んだ笑顔はみんな眩しくて 自分の居場所に絆される〉

 

ほぼそのままの意味ですね。

深読みするなら生徒の中で最も"闇"に近いエーデルからは他の生徒が『眩しい』のだと考えることもできます。

とはいえ『自分の居場所』『絆される』とあることから他生徒を憎く思ってはいないでしょう。むしろ現状を居心地良く感じ、安らぎを覚えてしまっている。『安らぎのよすが』になってしまったという描写でしょう。

 

〈力のしるしに焦がされた 素顔は仮面で隠したままで〉

 

みんなの解釈一致ポイントです。力のしるし紋章はもう議論の余地はないでしょう。

焦がされた』のは紋章によって支配されるフォドラを自分が変革しなければと焦がされている、もしくは2つの紋章によって寿命が短くなっているため苦悩している、といったところでしょう。

力のしるし」をあえて深読みするなら『(次期)皇帝の立場』とも言えるかも。

とはいえその場合でも『紋章』という意味も含むでしょうし、何にせよエーデルが自分の野望について悩んでいたのは確かです。

仮面』は炎帝の件と普段から本心を隠して振舞っていたことのダブル・ミーニングですね。そういえば『力のしるしに焦がされた素顔』と切っても意味が通ります。まあ、どちらにしても意味は大して変わりませんが。

 

〈名もなく咲きゆく小さな花のように あなたの横顔いつも見上げていたかった〉

 

あなた』がどう考えてもベレ先生以外にあり得ないので、とても分かりやすい表現です。

名もなく咲きゆく小さな花』は皇女や級長という重要な立場の生徒ではなく、ベレ先生に名前も覚えられないような一般生徒(モブ)のことですね。

横顔』も、ベレ先生に正面から見据えられない一般生徒を表すとともに、ベレ先生が自分のことを見ていなくとも、近くにずっといたかった。という意味です。

士官学校時代のエーデルがこれから起きる(というか起こす)事件や運命を考えている場面なわけです。

ちなみにベレトとベレスのどちらであってもエーデルより身長が高いので『見上げる』という表現は成立します。

もっとも身長云々の前に、教師である(教壇の上にいる)ベレ先生を(座って勉強している)生徒の立場で見上げるという意味にも解釈できますが。

 

〈雨に打たれる石畳 濡れた背中を追いかける〉

〈振り向く瞳に戸惑って 告げかけた噓飲み込む〉

 

一気に2ついきます。理由はここの考察が難しいからです。かなり長くなりますのでご覚悟を。

なぜ難しいのかというと、他の歌詞に比べてはっきりとした表現が少ないため、ある程度想像で補わなければならないからです。

まずは『雨に打たれる石畳』「こんなシーンあった?」と思われる方もいるかもしれませんが、ありません。

では意味がないのかというとそんなことはなく、『』はジェラルトが死んでしまった場面を表しています。突飛かと思われるかもしれませんが『』は悲しみや涙の比喩表現によく用いられます。

私の記憶では本編中で"雨"が強調されたのはジェラルトの死でベレ先生が涙を流したシーンと翠雨の節のマイクラン戦だけであり、マイクラン戦の話が歌詞に出てくるとは思えません。

このことから『』はジェラルトの死の場面のことだと言えるわけです。

さらにその雨が降り続いているので、これはジェラルトが死んですぐ、ベレ先生がまだ立ち直る前の時期を表すと分かります。(実際、ジェラルトの死からベレ先生が立ち直ってすぐの散策では「雨、止んだね」と発言する子どもがいます)

石畳』は普通に大修道院を表しているものでしょうね、それが『雨に打たれ』ているので、大修道院全体がジェラルトの死によって悲しんでいる。という表現になります。

 

次に『濡れた背中を追いかける』ですが、『』の意味さえ分かってしまえば誰のことかはさして難しくもありませんね。雨に最も打たれている人物、ベレ先生のことです。

背中を追いかける』という表現が少し難しいのですが、悲しみに暮れ後ろ向きになってしまったベレ先生にエーデルが声をかけようとしている。と解釈できるでしょうか。

振り向く瞳に戸惑って 告げかけた嘘飲み込む』は『戸惑って』とあることから、振り向いたベレ先生の眼差しを見てエーデルは嘘を告げるのをやめた。となります。

なぜ戸惑ったのか?」「嘘とは何なのか?」は、難しい問題です。明確な答えはないと言っていいでしょう。とはいえそれで終わらせるわけにもいかないので考えてみると、「戸惑った理由」は「先生が涙を流していたから」と言えます。

もちろんちゃんと根拠があります。それは白雲の章で黒鷲の学級を選んでいた場合のみ発生する、エーデルが悲しみに暮れるベレ先生に会いに来るイベント

ベレ先生が顔に涙のあとを残しているのを見つけ、エーデルは「貴方も泣くことがあるのね」と口にします。実際にプレイした方なら感じたと思いますが、この時の彼女のセリフは父を失くして悲しんでいる相手に対し明らかに配慮の欠けた発言です。実際その後彼女は自分でも「という言い方は酷いかしら」と付け足しています。

平時なら自分の師にわざわざそんな発言をするエーデルではないので、これはつい口から出てしまった言葉でしょう。ではなぜそんな言葉を口にしてしまったのかと言えば、それこそが、悲しみに暮れ前を見据えられなくなったベレ先生の瞳を見て『戸惑った』からでしょう。

 

さて、エーデルはこの時ベレ先生を訪ね、ベレ先生を見て戸惑い「泣くことがあるのね」とつい言ってしまったわけですが、そもそもこの時本当は何と声をかけるつもりだったのでしょうか? 

 

それを解くカギとなるのは、黒鷲の学級以外の学級を選んだ場合の散策時のエーデルとの会話です。

この世界線だとエーデルが会うのは他の級長やソティスに励まされた後のベレ先生であり、『戸惑う』ことも『噓飲み込む』こともありません。つまりこの時のエーデルがかけた言葉こそ、彼女が本来かけようと思っていた言葉、『告げかけた嘘』だったのだと考えることができます。

他学級の場合の会話は以下の通りです。

「ジェラルト殿のこと、残念だったわね。」

「力になれることがあれば言って。それが復讐でも……力を貸すわ。」

「彼らに好き放題されるわけにはいかないでしょう?」

一見「優しい言葉をかけて寄り添ってくれている」ようでいて、「ベレ先生が復讐心に駆られるように焚きつけている」ようにも捉えられます。もっと言うなら、ベレ先生が闇うごたちと戦うように誘導している。でしょうか。

要するにエーデルの『告げかけた嘘』とは、ベレ先生を罠に嵌めるための言葉のこと。というのがこの部分の私の考察です。(補足すると、黒鷲ルートのみ封じられた森の闇うごの罠にエーデルが関与、協力していたが思い留まったと捉えられる描写があります。また、黒鷲ルートではベレ先生に復讐を勧めるような描写はありません)

まとめると「ジェラルトが死に悲しんでいたベレ先生を罠に嵌めようと声をかけるが、泣いた跡のあるその瞳を見て、思い留まった

「そもそもなんで泣いてるベレ先生を見てエーデルが戸惑うのか?」という疑問は、考察すると既に長い文がさらに長くなるので割愛します。泣いていたベレ先生を見てエーデルが戸惑う描写は本編にあったので、これ以上は歌詞の考察というより本編の考察になりますしね。

 

〈叶うはずのない約束は 悲しい少女の願いだから〉

 

一つ前の難しさに比べたら大分マイルドですね。大前提としてこの『約束』は「5年後にまた学級の皆で大修道院に集まる」という約束のことです。「FE風花雪月」というゲームにおいてこれ以上大事な約束はないですし、疑う余地はありません。

叶うはずのない』と断言しているのは5年後には戦争でそんな場合じゃなくなることを知っているから。また、戦争を起こせばきっと自分には誰もついて来ないとエーデルガルトは覚悟しているからです。

独りになるのは当然だし独りになろうとも覇道を征くと覚悟したエーデルガルトが約束してしまったのは、仲間たちに自分について来てほしいという悲しい願いを抱いてしまったから。ということです。

 

 〈はかなく消えゆくひとひらの雪のように かすかな想いがあなたに伝わるように〉 

 

 少し長いですが、言っていることはそのままですね。本心を見せず出さない(出せない)エーデルらしい一節です。ここで考察の対象となるのは『かすかな想い』とはなにか。くらいでしょうか

 しかし、ここに明確な答えはありません。強いて言えば「ベレ先生への想い」と言えるでしょうが……

 とはいえ「一つ一つ考察する」と言った手前それで次に進むわけにもいきません。あくまでも私の考えとして書いておきますと、『かすかな想い』の正体はエーデルのベレ先生への恋心のことだと思います。

エーデルは級長で唯一ベレトス問わずペアエンド を迎えられる。というのも理由の一つですが、なにより、誰にも頼れずに生きてきた少女が突如現れ、さらには自分を賊から守ってくれた優秀な人材、初めての『頼れる存在』であるベレ先生に惚れてしまうのは無理のない流れでしょう。

 

〈鈴の音響くような蒼い月あかりに照らされて テラスを渡る風が頬の火照り醒ますまではこのままで〉

 

普通に考えれば、エーデルとベレ先生の支援会話の一場面が想起させられる歌詞です。

頬の火照り』とあることからエーデルがベレ先生がいなくなったあと、一人テラスで頬を赤らめている光景が浮かんできますね。

 しかしこれだけ意味ありげなワードを使っておいて、それだけということもないでしょう。

まず前提として『』は和洋問わず神聖なイメージのある道具。『蒼い月』は滅多に見れないため"奇跡"を表す慣用句。『頬の火照り』はエーデルのことです。また、この考察では光やそれに付随するものはファドラを支配しているもの、と捉えています。

 鈴が聖教会のことだとすると、『鈴の音響くような蒼い月あかり』は聖教会の力によってもたらされた奇跡のような時間のこと。『テラスを渡る風』は単に時間の経過、もしくは現実の蒼い月(ブルームーン)が大気中の塵に起因していることから、風で塵が流され、奇跡が終わることを表している。『頬の火照り醒ますまで』は奇跡が終わり、エーデルが元に戻る(=冷静になる)まで。とそれぞれ捉えられます。

ここで言う"奇跡"とは士官学校で平和に様々な立場の仲間と過ごせていることですね。

 つまりエーデルは敵である聖教会にもたらされた心地の良い"奇跡"の時間に自らが絆されていることも、それではいけないということも理解した上で、その時が来るまではこのまま"のぼせ"たままでいたいと願っている。と読み取れるわけです。

これが二つ目の意味ではないでしょうか。

 

〈心を彩るいとおしいこの時の すべてを壊すために扉を開けて〉

 

いとおしいこの時』に関しては、ここまで来ればもう説明は不要でしょうね。『士官学校』のことです。

心を彩る』という言葉もそのままの意味ですが、少しだけ深読みができます。

まずベレ先生が「灰色の悪魔」と呼ばれていたということ、そして本編中で何度か「ベレ先生が士官学校で生活をするうちに感情を表に出すようになった」という描写がありましたね。

歌詞であえて心を『彩る』という表現をしたのは、『教師』になったことで「灰色」ではなくなったベレ先生とともに、『生徒』となったことでエーデルガルトも同じように変化をしていたから。と読み取れるのです。

すべてを壊すために扉を開けて』は、聖墓襲撃時の心情と捉えて良いと思います。一番の岐路となった場面ですからね。『』は"戦乱の扉"のことでしょう。

 

〈夜明けの手を取り高く羽ばたく日まで 安らぎのよすがに身を預けて震えている〉

 

最初と同じ歌詞の繰り返しです。

前半の意味は同じですが、『安らぎのよすが』はそのまま士官学校の仲間やベレ先生のことだった最初に比べると、心地よい夢のようだった『過去の記憶』と言った方がよいでしょう。

もう戻れない過去の記憶に思いを馳せ、今まさに戦争を始めようとしている恐怖と不安に震えている。となります。

 

はい、以上で『フレスベルグの少女~風花雪月~』の歌詞考察はおしまいです。

この歌詞が何を強調したいのか、何を表現したいのか、大体伝わりましたでしょうか。

 

『フレスベルグの少女』の歌詞考察

ここからは紅花の章を除いたED曲である『フレスベルグの少女』(副題無し)の歌詞考察に移ります。

こちらは「銀雪の章の皇帝エーデルガルトの回想」という前提で考察を進めます。ただし、重複している歌詞で意味合いもさして変わらない部分は省略します。

 

夜明けの手を取り高く羽ばたく日まで 安らぎのよすがに身を預けて震えている

 

ここは最後の同じ歌詞と同じ意味でしょう。内容はここでは触れずに進みます。

 

〈ステンドグラスを透る光 銀の燭台きらめいて〉

〈並んだ笑顔はみんな眩しくて 自分の居場所に絆される〉

 

ここから回想に入っています。

エーデルが独り、聖教会によって照らされていたあの頃を思い出しているわけですね。特にこれといって付け加えることはないでしょう。

 

〈力のしるしに焦がされた 素顔は仮面で隠したままで〉

 

ここは5年後エーデルの回想になると『素顔は仮面で隠したまま』が「本心を隠していた」という意味に強く傾きますね。

エーデルがそれを後悔していたのかまでは、ここからは読み取れません。

 

〈しずかに過ぎゆくこの満たされた日々に すべてを忘れて閉じ込められていたかった〉

 

歌詞が変わっているポイント1つ目です。

しずかに過ぎゆく』はおそらく鷲獅子戦あたりまでの学校生活を指しているものと思われます。転機となるルミール村の事件やジェラルトの死の前を、満たされた日々だったと思い出しているわけです。

すべてを忘れて閉じ込められていたかった』とは、自らの野望のためには叶わない願いだと知っていながら、その野望や責任すらも忘れてずっと過ごしていたかった。という「皇女としての野望」と「一人の少女としての願い」の間で悩み続けていたエーデルらしい一節だと思います。

もう二度とその時には戻れないと知りつつも回想してしまうのは、たとえ自分が望んだことの結果であっても、失ったものや捨てたものに焦がれてしまう人間らしさなのでしょう。

 

〈雨に打たれる石畳 濡れた背中を追いかける〉

〈振り向く瞳に戸惑って 告げかけた噓飲み込む〉

 

上で長々と語ったので、付け加えて語ることが特に思いつきません。

5年後エーデルの回想として捉えると『』を飲み込んだのが失敗だった、と後悔しているようにも読めます。といったくらいでしょうか。

 

〈叶うはずのない約束は 悲しい少女の願いだから〉

 

5年後エーデルの視点で見ると「あの約束は悲しく幼い"少女"の願いだから」と過去の約束を「やはり叶うはずがなかった」と回想していると考えられます。

ちなみに銀雪の章においてもエーデルとベレ先生は大修道院で再会を果たしますが、エーデルの願いはただ"会う"だけではないので、願いは叶わなかったと言っていいでしょう。

 

〈優しく重ねたこの手を離さないで 隙間から大切なものこぼれないように〉

 

歌詞が変わっているポイント2つ目です。

重ねたこの手』というのは少々厄介な表現です。まず本編中にこの光景を想起させる場面がないこと、そして「手を重ねる」という言葉は一般的には手を置いている人間の手の上にもう一人が手を置く様子。もしくは円陣の時に大勢で手を置いていく様子に使われます。また広く捉えれば手を繋ぐ、または握手なども「手を重ねる」と言えてしまい、意味が広いのです。

エーデルとベレ先生のことなのか、それともエーデルとベレ先生を含めた学級の仲間たちのことなのか、人によって大きく考察が変わるポイントとは思いますが、私としては学級の仲間たちについて歌っているのだと思います。

理由としてはベレ先生に対しての詞にしては『重ねた手』という描写に違和感を覚えるからです。

 

士官学校時代のエーデルはベレ先生に教師としての信頼やそれ以上の感情は覚えていたかもしれませんが、(比喩だとしても)手を重ねる、手を繋ぐ、といった行為をするような、双方が積極的に双方を信頼する関係にはなっていなかったかな、と感じたからです。(ここは人にもよると思いますが……)

また、ベレ先生1人に対してならば『握った手』等の表現でも成立するので、あえて『重ねた手』と表現した意味、『叶うはずのない約束』の次の節で歌っているということを加味し、「学級の仲間との円陣」が最もそれらしい、と結論付けました。

この場合、大切なもの=絆のことでしょう。黒鷲の学級の仲間が一人ずつ道を違えていくことを「円陣から手が離れる」と表現し、その隙間から絆までこぼれていってしまうのが嫌だ。『手を離さないでという歌詞と読み取れます。

 

……正直、ここはまだ考察の余地がある、見落としがありそうな部分です。私はこれで一応納得できなくはないと思いますが、皆さんはどうでしょうか?

 

〈鈴の音響くような蒼い月あかりに照らされて テラスを渡る風が頬の火照り醒ますまではこのままで〉

 

回想とするなら例のベレ先生との支援会話の後の光景を思い出している、という以上の意味は見い出せないと思います。

 

〈心を彩るいとおしいこの時の すべてを壊すために扉を開けて〉

 

戦争の扉を開けた。という意味はそのままですね。5年後にあえて回想していると考えると、後悔はしていないものの、それでも『すべてを壊』さなかった未来を想っている。と読めます。

 

〈夜明けの手を取り高く羽ばたく日まで 安らぎのよすがに身を預けて震えている〉

 

回想が終わり、歌詞が初めと同じものに戻りました。

しかし説明は後に、一度ここで『フレスベルグの少女』(副題無し)の歌詞考察を終わりとし、まとめに移りましょう。

 

考察のまとめ

さて、いよいよ長かった考察も終わりに近づいてきました。ちなみに現時点で一万文字を超えています。

ここからは"まとめ"とし、後回しにしていた説明と『フレスベルグの少女』という曲について述べさせていただきたいと思います。

まず、私は本考察をするにあたって

OPの『フレスベルグの少女~風花雪月~』は「(黒鷲の学級を選んだ場合の)白雲の章のエーデルガルトの心の内

EDの『フレスベルグの少女』(副題無し)を「銀雪の章の皇帝エーデルガルトの回想

とすることを前提としました。その根拠を順に説明していきます。(以下からOPを~風花雪月~、EDを副題無し、と表現する)

 

まず『~風花雪月~』の歌詞に『風』『花』『雪』『月』と出てきたことにはお気づきになられましたでしょうか? 各ルートのことを表すと同時にゲームのサブタイトルでもある『風花雪月』は「四季折々の自然の美しい風景や情緒」、また「美辞麗句」というような意味を持っているそうです。

ダブル・ミーニングだとすると「美辞麗句」はまあ聖教会のしていた行いのことでしょうが、しかし「自然の美しい風景」というのはあまり本編の内容にそぐわないような気がします。

そこで「風花雪月」で表したいのは「四季折々」という部分ではないかと考えられます。(あまり印象に残っていないかもしれませんが、フォドラにはちゃんと四季があり、ゲームの進行とともに移り変わっていきます)

四季が移り変わるとはすなわち時間が進み、流れているということ。

この副題がついており、歌詞中で『風』『花』『雪』『月』が出てくるのは時間の経過を表していると考えられるわけです。これが、私が『~風花雪月~』は時間の流れとともにエーデルの心の内を表したものだと考えた根拠です。

逆に、『副題無し』に副題が無い、歌詞の中に『花』『雪』が無いのはこちらが回想であり、しっかりとした時間の流れが存在しないからというわけですね。

実はこの考察だと『~風花雪月~』がアップテンポである理由も説明ができます。曲中で『いとおしい』などと何度も強調していたことから、エーデルが大修道院での時間を幸せに感じていたことは明らかです。そして、

生まれてからずっと運命によって孤独に生きてきた少女にとって、幸せな時間は目まぐるしく過ぎて行ってしまった

曲がアップテンポなのはその表現だと言えるのです。

 

さて『副題無し』は紅花の章ではEDで流れない、と前述しましたが、どうして紅花の章でのみ流れないのでしょうか? 

(ちなみに「エーデルガルトへの鎮魂歌だから」という考えは私は支持しません。理由は、歌詞にはエーデルの本心がいくつも綴られていますが、エーデルは紅花の章以外では一貫して本心をひた隠しにしている上、愚帝として悪の大王のように扱われているため、後世の人間がその本心を推し量れたとは思えないからです)

いくつか考えられる理由はありますが、私はこの曲が回想は回想でも『エーデルガルトの死の間際の回想』だからだと考えます。

具体的にはエーデルがベレ先生の手で討たれる寸前です。紅花の章ではそもそもそんな場面が存在しないため流すことができないというのが私の考えです。

 

逆説的にこれは『副題無し』が「皇帝エーデルガルトの回想」だという根拠の一つにもなります。上でも書きましたが『花』『雪』が歌詞中に出てこない、『風花雪月』という副題が無いことも根拠ですね。

また『副題無し』は一度目の『安らぎのよすが』と歌う時は心臓の鼓動のような音が聞こえますが、二度目は何も流れません。これも歌い手であるエーデルの『死』を表している根拠と言えます。

副題無し』がスローテンポで悲しげな曲である理由も、自らに剣が振り下ろされるまでの一瞬が"走馬灯"によってとても長く感じられることの表現。と説明できます。長かった時間が一瞬に感じられた『~風花雪月~』とは逆、対比されているということになります。

 

残していた『副題無し』の最後の歌詞ですが、以上のことから考えると『夜明けの手を取り高く羽ばたく日まで』はエーデルが野望を最期の時まで捨てていないことを表わすと言えます。そして『安らぎのよすがに身を預け』は目の前にいるベレ先生に自らの運命を委ねる。との意味に変わります。

震えている』のは二人で道を歩めなかった悲しみ、そして殺されてしまうことへの恐怖。となるでしょう。ベレ先生の答えはエーデルには分かっているでしょうから。

 

これで、考察は以上となります。

 

後書き

この二つの曲はタイトルやメロディこそ同じであるものの、歌っている歌詞の意味も背景も全く違っている

最初に私がこのように書いたのを覚えていられるでしょうか。そして、このような結論に至った理由を理解していただけたでしょうか。理解して頂けたのであれば幸いです。

理解して頂けなかったのであれば、それは私の未熟さや文章力のせいでしょう。申し訳ございません。

多くの根拠と解説を詰め込んだ結果当初の想定をゆうに超える分量になってしまいましたが、ひとまず考察は自分で納得できるかたちにはなりました。

 

歌詞の考察は小さな勘違い一つで、致命的なまでに意味を履き違えてしまうものです。実際私もこれを書いている途中で何度も間違いに気づき、後ろに戻って書き直しました。

しかし、歌詞考察に明確な間違いはあっても明確な答えはありません。何度書き直そうが、この長い考察はあくまでも私個人の考えであり「私にとって一番もっともらしい考察」に過ぎないのです。

これを読んで頂いた皆様が『フレスベルグの少女』という素晴らしい曲に、今まで気が付かなかった何かを見つけることができれば、そしてそれが「皆様にとって一番もっともらしい考察」の一助となれば幸いです。

 

長い、本当に長い駄文を最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。

 

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